21世紀の日本らしいキリスト教の障害

校正者:棟方貴之

パーティに遅れたことがありますか?ちょっとだけでなく、本当に遅い感じで。やっと着いたら、食べ物はだいぶ食べられ、おもしろい話がもう出てその夜の思い出がもうできてしまった状態です。一人二人がもう帰った可能性もあります。もちろん残りの時間を楽しむけど、なんだか肩透かしを食う気持ちもあるでしょう。

このブログでしていることはたまにそんな感じがします。パーティに約150年遅れた感じ。日本的なキリスト教という質問は本当は260年間ぐらい鎖国した後で世界に開かされた1863年の時から取り組み始めたことでしょう。何百年分の西洋の文学、芸術、哲学、科学、歴史、宗教、社会政治経済的な考えを噛み締めて、ただの何十年の間に近代化しました。たくさんの新しいその情報を受け入れながらこの質問が問われました。「外からいろいろな知識や文化の流入に応じて、どうやって日本のアイデンティティを確保すればよいでしょうか?」内村鑑三のような日本的なキリスト教という概念を擁護している人もいながら、その時代の日本人が結局に至った結論は、日本のアイデンティティの大元は神道や仏教といった宗教だということで特殊的にキリスト教の影響を断りました。その時代には、日本のものごとと外からのものごとはより区別しやすかった気がします。着物は和服、スーツは洋服。

第二次世界大戦も連合国による占領があった現在には、それぞれの文化的な影響や改革ややこしく美しい万華鏡のような現代日本ができました。しかし、日本がこういうふう変わってきたからこそ、日本的なイエス様の従い方を考え出すのがもっともっと曖昧でややこしくなりました。占領時に紹介された野球が日本には一番人気のあるスポーツになってきましたし、前にも今にも洋服というスーツこそがサラリーマンのシンボルになりました。

そのうえ、過去に日本らしいとされたことは現代日本においてはだんだん時代遅れようなこととしてみなされてきているというか、少なくとも、特別のイベントだけに使うものになったようです。日本を好きだけど日本を知らなかった過去の私は、神社またお寺のような教会で、着物を着て礼拝に出席し、三味線で讃美歌を歌うという夢がありました。今顧みてみると、たぶん日本人から見てとてもおかしいことかもしれません。

この二つ理由で、現代日本には何が「日本的」で、何が日本的ではないか判断しにくくなってきたようです。または、「日本的」という言葉を再定義する必要がある気がします。もっと細かく、「現代日本的」ってなんでしょうか?なぜかというと、日本の伝統いくつかをとってキリスト教と混ぜて日本的なキリスト教と呼ぶのがわりと簡単で、その伝統も大事な日本文化の一部なのに、全体的に、日本的なイエス様の従い方は表面より深くなければならず、外見的な伝統をこえて現代日本のトレンド、態度、価値、考え方、文化、話し方などまでに至らなければいけないと思います。

どうもパーティに遅れてきたわけだと思いますが、神様の御心なら、せめてこのパズルの一部さえを解きたいと思っています。

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