しろかのと日本人にとってしなくてもいい選択

 私のおじいさんから「しろかの・どんな代償も払う忠誠心」という、第二次世界大戦の間にキリスト教徒となった日本人についての本をもらいました。彼の話を読んでいくうちに、不思議と面白くなりました。子どものときに「台風の男」とあだ名がつけられたようです。どんなに悪い子か自分でわかってはいましたが、どうやって自分を変えることができるか分かりませんでした。仏教、および神道を試してみたんですが、どちらもうまくいかなかったそうです。ついに学校から追い出されました。そんな最低な状況の時に、たまたまキリスト教の教会のことを知り、そこで心の変革を体験しました。「三か月間、毎晩お寺に行ったけれど、欲望を乗り越えることができなかった。朝早く神社に行くこともしていたけど、空気の清々しさしかなかったんだ。だけど、ナザレン教会に一回行き、礼拝堂の前に進み、祭壇にひざまずいて、キリスト・イエスに出会って自分は新しい創造物になれたんだ。」(しろかの、28ページ)

 またその本には、しろかのの人生について、外国の宗教と思われていたキリスト教を信仰したために家族や社会に拒絶され、彼が本当に成長し理解されるまでに時間がかかったことなどが詳しく述べています。彼は東京に行って勉強した後、軍隊に入り、そこでキリスト教を信仰したことと天皇を崇拝しないことで迫害を受けました。それから、アメリカに留学して、アメリカが第二次世界大戦に突入するまでに、かのは信仰的に成長しました。そのとき、アメリカに住んでいる日本人が迫害を受け始め、捕虜収容所に入れられました。実際、アメリカに残ることが本当に危険になるまで、しろかのの友達や知り合いが優しく、かなり長い時間守ってくれました。その後、彼は日本に送還されました。そこで、牧師として働く希望を持っていました。しかし、その時の日本は政府にとても制限されていたため、その実現は難しくなりました。信仰と母国に対する愛と、留学した国に対する尊敬の念で心が真っ二つの状態で、通訳者として軍隊に入り、戦争中に殺されました。

 日本でキリスト教の信仰によって彼は迫害されましたが、一方で、アメリカでは日本の国籍を持っていたことで迫害されました。しろかののストーリーは奇妙に思えますが、本当はおそらく、母国とキリスト教の信仰の中でどちらかを選ばされる、実在した日本人の象徴的なストーリーだと思います。仏教徒だった、かののお母さんが「(日本で)福音を延べ伝える牧師としての難しい人生を選んだんですが、その信仰を死ぬまであきらめないでください。」(しろかの、96ページ)表面的にその葛藤は理解できます。日本は天皇に対する忠誠を求めていたのに対して、多くの欧米人が信仰していたキリスト教はイエス・キリストに対する忠誠を求めていました。でも、この謎はそれより複雑だと思います。もっといえば煩雑だと思います。単純に表面的な解決とはいかないでしょう。キリスト教の根幹は実際に基本的な日本人の根幹に一致するのではないでしょうか。わたしが正しいと思うこの考えと、この話の内容が一致しないのです。日本人はキリスト教と日本らしさのどちらか選ぶ必要はないと思います。なぜ同時に両方選ぶことができないのでしょうか?誰がそう言いましたか?

 たぶんしろかのの時代から比べたら、今はもっと楽になっているかもしれません。今の日本は宗教を自由に決められます。ですが、日本にいる毎日感じるんですよ。多くの日本人がキリスト教を自分に合わないこと、「お気に入り」ではないことを。そしてそれがなぜなのかも。「西洋から来たから」という説よりもうちょっと複雑だと思います。なぜかというと、ハンバーガー、ロック、野球などのいろいろな西洋のものが日本でたくさん人気になってきたからです。もっと深く、本当に理解したいのです。いったいなんでこの二つの中から一つだけ選ばなければならないのか?どちらか選ばなくていいでしょう。

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